11月某日、お母さんが首を吊って死んだ。
あの日のことを忘れないために、僕はここに当時の出来事を記しておく。
その日、僕は妻と娘の3人で夕ご飯を食べていた。
くだらない話をしながら、和気あいあいと過ごす、いつもと変わらない食卓。
18:43。弟から一本の電話が入る。
弟とはLINEをすることも滅多になくて、何事かと思いながら僕は電話に出た。
「もしもし?どしたん?」
「まる兄…お母さんが、首吊って…死ぬかもしれないって…」
「え…」
僕は一瞬、言葉を失った。
弟の話によると、先程父から連絡があり、お母さんが家で首を吊っていたので救急車を呼んだと。
でももう状況的にダメかもしれないと。そう言っていた。
電話を切り父ちゃんにかけようとすると、父ちゃんから何度も着信が入っているのに気付いた。
僕が父ちゃんに電話をかけると、父ちゃんはすぐに電話に出た。
「もしもし!父ちゃん!弟に聞いたよ!お母さんは!?」
「まるを…ああ……お母さん……ああ…今、お母さんが…ああ…」
父ちゃんは気が動転していて、うまく話せていなかった。
その様子と、後ろでバタついている音が、本当にマズい状況であることを嫌でも僕にわからせた。
電話を切ると、僕は妻を廊下に呼んだ。
「父ちゃんから電話で、お母さんが首吊って救急車で運ばれたって。結構ヤバい感じっぽい」
「うそ…」
妻も言葉を失っていた。
「とにかくちょっと、今から行ってくるわ。なんか分かり次第連絡入れるから」
僕はそう言って、急いでバッグに着換えやら何やら、思いつく必要そうな物を詰めて家を出た。
実家までは車でおよそ1時間半。
その長い道のりを、僕はただひたすらに車を走らせた。
夜道を運転している時、僕の意識は曖昧な感じで、ふわふわしていた。
これは本当に現実のことか?
実は夢だった。そう言われても素直に納得できる。
そのくらいふわふわだった。
もう少しで病院に着く。
そのくらいに迫った時、僕は目に止まったコンビニに立ち寄った。
その日がヤンジャンの発売日だったのを思い出したのだ。
僕はコンビニに入り、目的のヤンジャンを手に取り、中を開く。
僕は急がなきゃいけないのに、何でこんなことをしているのか。
それはよく分からなかったが、多分、行きたくなかったからだ。
行けば、多分、僕の想像する状況に直面する。
ふわふわした曖昧な感じから、嫌でも現実に引き戻される。
だから行きたくなかった。現実逃避したかった。
でも結局、2ページくらい見てすぐに閉じた。
内容が全く頭に入って来なかったから。
そして僕は再び病院へと向かった。
病院に着いて救急口から中に入ると、すぐの所に父ちゃんと、警察の人がいて話をしていた。
僕が父ちゃんに話しかけようとすると、左側の救急室のドアから、事務?の人が出てきて、
「息子さんですか?こちらです」
と言って、中に案内された。
その時点で、察していた。
中に入ってすぐ右の、カーテンで囲われたベッド。
そのカーテンを開くと、ベッドに横たわるお母さんと、弟がいた。
弟は、静かに泣いていた。
お母さんの顔を覗き込むと、顔色が悪く、眠るように目を閉じていた。
お母さんは、死んでいた。
首には、紐か何かで吊ったであろう痕が残っていた。
僕は1時間半の道のりで覚悟していたから、泣きはしなかった。
お母さんの顔や手を触ると、まだ温かかった。
部屋を出ると、警察の人との話が終わったのか、父ちゃんが一人で椅子に座っていた。
父ちゃんは、警察の人との話が終わったばかりだからか、意外と冷静な顔をしているように見えた。
僕が父ちゃんに話しかけようとした時、今度は救急口から兄が入って来た。
僕は兄を母のもとへ案内しようと、救急室のドアに手をかけた。
その時
「俺が………もっとしっかりしてればなぁ……」
そう父ちゃんが、泣き声で、呟くように言った。
それを聞いて、僕は泣いた。
声を出して、泣いた。
父ちゃんと警官が何度かやり取りを交わした後、お母さんの遺体は警察署へと運ばれていった。
病院で亡くなるのと違い、自殺は、すぐに遺体を引き渡してもらえない。
他殺の可能性を無くすため、現場検証をする。
お母さんの場合は自宅での自殺だったので、警官は自宅へ。
僕らは警察署の前の駐車場で待たされた。
田舎の寒い11月の夜の下。
22時頃から始まった現場検証は、深夜2時頃にようやく終わった。
その後、警官の待つ家へと向かう。
到着すると、警官と父ちゃんが話をしながら、また現場検証が始まる。
一人の警官が聞き取りをし、もう一人が写真を取る。
外から中から、色んな所の写真を取っていた。
その様子を少し離れて見つつ、僕ら兄弟は何となく警官と話をする父ちゃんについて回る。
そこで、聞いてしまった。
首を吊ったお母さんを、発見するまでの経緯を。
18時半頃、父ちゃんは、仕事を終えて家に帰った。
するとリビングに、お母さんの書き置きが置いてあった。
『友達の家に泊まりに行きます。おでんを作っておいたので夕飯に食べてね』
そう書いてあった。
しかし家に車はあるし、そもそも友達の家に泊まったことなど何十年も無い。
妙だと思った父ちゃんは、お母さんのケータイに電話をかけた。
すると2階から、微かに電話の鳴る音が聞こえた。
2階に上がり、物置部屋に入ると、その音がクローゼットの中から鳴っているのに気付いた。
そして父ちゃんがクローゼットを開くと、そこに、お母さんはいた。
僕は、怖くて聞けなかった、お母さんを見つけるまでの経緯を、聞いてしまった。
結局そこから更に小一時間かかり、深夜3頃に警官は帰った。
それから父は葬儀屋さんと電話でやりとりし、その日はそれで終わった。
布団に入ったのは、4時くらいだった。
3時間後。休む日まもなく僕らは起きて準備する。
8時半頃、家を出た僕らは、まずお母さんが搬送された病院へ向かう。
そこで医師の記入した死体検案書を受け取る。
そしてお母さんのいる警察署へ葬儀屋さんと共に向かう。
警察署で事務対応を行うと、お母さんのいる安置所に案内される。
そこでようやく、お母さんが警察から引き渡された。
病院で見た時より、随分顔色は良くなっていて、まるで普通に眠っているようだった。
それでも警官とか、葬儀屋さんとかと話す父ちゃんの姿や話を聞いていると、やっぱりお母さんは死んでいるんだと思った。
そしてそのまま、葬儀場へと向かう。
雲一つない晴天の空の下、窓の外に見えるカラフルな紅葉だけが、凄く綺麗だった。
葬儀場では、葬儀の日取りや流れ、確認事項などを父ちゃんと担当の人が進めていく。
この時の細かな話はあまりよく覚えていない。
単純に疲れていて、頭が働いていなかった。
とりあえず、明日は湯灌・納棺。葬儀は明後日に決まった。
葬儀屋さんに、
「エピソードと共に映像を流すので、奥様のお写真を10枚、選んできて頂けますか?」
そう言われ、僕らは家に戻って写真を探し始めた。
父ちゃんが持っているデカいアルバムの数々には、沢山の写真が入っている。
でもその多くは僕ら子供の写真ばかりで、お母さんの写っているものは随分少なかった。
それでもみんなで探して写真を選ぶ。
ふと、テレビ台の上にあった写真の束を見た。
それはここ10年くらいの、比較的最近の写真。
それを見ていると、僕と妻の結婚式の写真があった。
その中には、僕と妻と父ちゃんとお母さんが、満面の笑顔で写っている写真があって、
それを見て、僕はまた泣いた。
写真を選び終える頃、僕の妻がやってきた。
急いでくる必要性はなかったが、どうしてもお線香を上げたいとのことで、来てくれた。
ちょうど写真も選び終わったので、一緒に葬儀場へ。
葬儀場の中に入ると、その時点で妻は涙ぐんでいた。
お母さんのいる部屋に入り、お線香を上げる妻。
両手を併せながら、
「もっと…娘の写真とか動画とか、送ってあげればよかった…」
そう言って泣いていた。
それを聞いて、僕もまた泣いた。
誰かが、後悔の言葉を口にする度、僕も我慢できずに一緒に泣いてしまう。
だって、お母さんが死んだのは、僕のせいだから。
お母さんの調子がおかしくなり始めたのは、およそ3年前。
頭痛、動悸、耳鳴り、めまいなどが出現し、パニックに陥った。
お母さんは近くの病院に受診したが、結局原因は分からず、症状に対しての薬が処方された。
それから多少落ち着いたが、程なくして再発。
そこからお母さんの、病院めぐりの日々が始まった。
お母さんはとにかく、色んな病院の色んな診療科にかかり、色んな検査をした。
覚えてる限りでは、総合診療科、内科、呼吸器内科、血液内科、整形外科、内分泌内科、神経内科、循環器内科などにかかった。
しかしそれでも不調の原因はわからない。
最終的には、「あなたの症状は精神的なものです」と言われるようになった。
でもお母さんは、その診断を受け入れなかった。
「絶対に精神病じゃない。何か他に原因がある」と信じて疑わなかった。
そしてお母さんは、次第に自分の病気が【人に感染させる悪い菌だ】と考えるようになった。
菌が頭の中に入り込み、普通の検査では発見できない。
だから一般的な検査では見つからない。
あの人も、あの人も、体調が悪そうにしている。
自分の近くにいたから感染したんだ。絶対そうだ。
そういう風に思うようになった。
そしてお母さんは、自分の考えを色んな病院で話した。
市の相談センターや保健所、果ては警察にまでその話をした。
でも、誰も信じなかった。
お医者さんは一様に、
「それはちょっと…あり得ない話ですね。一度、精神科の方に行ってみた方がいいですね」
ということしか言わなかった。
そして、僕ら家族も、信じなかった。
常識的にも、医学的にも、お母さんの言ってることは有り得なくて、あまりに論理が飛躍していた。
次第には
「自分の菌が日本中に行き渡っていて、たくさん人を殺してる」
「何れ判明して、大量殺人の罪で警察に逮捕される」
とまで言い出し、精神的におかしくなっているのは、誰の目にも明らかだった。
それからお母さんは病院に行くことをやめ、家に引きこもるようになった。
病院へ行っても検査してくれないし、薬も全然効かない。
だから行かなくなった。
家にいる時間、お母さんはネットで色々なことを調べ、不安になるとすぐに僕や、他の兄弟に連絡を取るようになった。
ひどい時では連日、LINEや電話が来た。
兄貴は匙を投げ、連絡が来ても無視するようになった。
弟も、あまりのストレスにLINEをブロックするようになった。
僕もあまり相手にはしたくなかったが、流石に僕まで無視するのは忍びなくて、可能な限り話を聞いてあげるようにした。
しかしお母さんの話はいつも同じで、
「私の頭の中には新種の菌がいる」「人に移して感染させている」「たくさん殺してる」
としか言わない。
元々お母さんは思い込みの強い性格で、人の話なんて全く聞かない。
自分の考えが常に正しく、その考えに固執する。
そんな性格と原因不明の体調不良、そして医者への不信感などが重なり、そういう結論に至ったんだと思う。
そんなお母さんに対し、僕は毎回イライラをぶつけながら否定していた。
それを、ずっと繰り返した。
そして次第に、連日来ていたお母さんからの連絡は、ほとんど来なくなった。
お母さんからの連絡が少なくなって、僕は安堵していた。
反面、少し心配もしていた。
でも自分から積極的に連絡は取らなかった。
連絡すれば、きっとまた不毛な話が始まる。
それがきっかけで、またたくさん連絡が来るようになるかもしれない。
そう考えると、連絡する気力が湧かなかった。
僕は、何もしなかった。したくなかった。
そして何もしないまま時が流れ…
その時を、迎えてしまった。
僕は、病院で事務として働いている。
父や兄弟より医療的な知識があり、僕だからこそ出来ることは沢山あった。
例えば、ソーシャルワーカーさんに事情を話し、精神科までの道筋を作れるように段取りするとか、
医師に実績のある精神科や心療内科を聞き、紹介状を書いてもらうとか、
僕自身が精神科に赴き、母への対応についてアドバイスをもらうとか、
やろうと思えば出来ることはあったのに、僕は、やらなかった。
僕は、傍観者だった。
電話やLINEを無視しないことで、傍観者でいることを肯定しようとした。
その結果が、最悪の事態を生んだ。
写真を葬儀場の人に渡すと、父ちゃんが、明日、葬儀場に泊まりたいと言った。
明後日の葬儀まで、お母さんと一緒にいたいと、そう言った。
「お前たちはどうする?」
そう父ちゃんが聞いてきた。
僕は正直、迷った。
泊まりたい気持ちはあるけど、父ちゃんの悲しんでいる姿を見るのが、辛い。
自分を責める父ちゃんの姿を見ると、僕自身が、辛い。
だから、そういった意味で、泊まりたくない気持ちもあった。
すると、弟が、
「俺らがいない方が、父ちゃんとお母さん、二人で過ごす時間になっていいんじゃない?」
と言った。
すると父ちゃんが、
「いや…誰かいないと、ちょっと…ダメかもしれない…」
そう、涙を溜めながら言った。
それを聞いて、僕と、弟が一緒に泊まることにした。
翌日、15時。
湯灌・納棺が行われた。
湯灌・納棺とは死者の身体を拭いたり、白装束を身に付けたりした後、棺に入れる儀式だ。
親族が何人か集まり、僕らは広めの和室でその儀式を行った。
葬儀屋の指示の下、粛々と手順を進めていく。
横たわるお母さんは普通に寝ているように見え、次の瞬間にも起きて来そうだ。
でも、決してそんなことはなくて。
僕らは最後に、お母さんを棺の中に入れた。
その夜。
僕と弟と父ちゃんの三人は、納棺を行った部屋に泊まった。
その部屋にはお母さんの棺も置いてあって、
お線香が小さくなると、誰ともなくお母さんの下へ行き、新たにお線香をつけた。
部屋ではテレビを見たりスマホをいじったり、いつもの日常を過ごした。
22時を過ぎると、明日に備えて早々に布団に入った。
いつもならすぐに寝て、イビキをかき始める父ちゃんだったが、
この日は、いつまでもイビキをかくことはなかった。
翌日。
葬式の日。
7時頃に目を覚ました僕らは、誰が言うでもなく布団を片付け、淡々と朝の支度をする。
今日、これから、葬式が行われる。
頭では分かっているけど、そういう実感が未だに僕には無かった。
それでも、時間は刻々と進んでいく。
準備を終えてホールで待っていると、親戚が続々と集まってきた。
僕ら兄弟には同年代の従姉妹がたくさんいて、久々に会えて随分と会話が盛り上がった。
11時。親族が集まると、葬儀の段取りの説明を受けた。
打ち合わせの最中に流れるBGMと、僕らの選んだ写真の映像が、本番前にも関わらず涙を誘い、思わず泣きそうになった。
打ち合わせを終え再びホールで待っていると、家族葬にも関わらずお母さんや父ちゃんの知り合いがお焼香をあげにちらほらやってきた。
どこかで話を聞いて来てくれたようで、みんな一様に驚いたり、涙を流したりしていた。
死因を尋ねられて曖昧に説明する父ちゃんの姿に、何だかいたたまれない気持ちになった。
12時30分。葬儀・告別式が始まった。
淡々と、粛々と進む葬儀の中で、僕は未だに実感を抱いていなかった。
これは現実なんだけど、でも他人事のようで…
理解と、気持ちが噛み合っていない。
それでも、葬儀は確実に進み
住職が退室すると、最後に、棺の中に花を入れることになった。
葬儀屋さんから渡された沢山の花を、棺の中に所狭しと詰めていく。
お母さんはピンクが好きだったから、僕はお母さんの顔の周りに、沢山ピンクの花を置いた。
娘は、お母さんに宛てた手紙を書いてきていて、それをお母さんの胸もとに置き、
「おばあちゃん、バイバイ」
と言った。
それを見て、僕は
ああ、お母さんは、死んだんだ。死んだんだよ。
そう、思った。
僕はまた、泣いていた。
その後、火葬場に行った。
お母さんが燃えてなくなる、最後の時。
僕はその瞬間まで、お母さんの顔をずっと見ていた。
その顔を忘れないように、記憶の中にいつまでも残るように。
そう思いながら見ていた。
そして、お母さんは燃やされ、骨になった。
その骨をみんなで骨壷に入れ、最後に、線香を上げた。
葬儀は、終わった。
今回の事を振り返ってみて、僕は、ずっと後悔しかない。
時間が経てば、この気持ちも、記憶も、やがて薄まって
お母さんを思い出して泣くことも、無くなるのかもしれない。
でも、この後悔は、どれだけ時間が経っても
つっかえたみたいに、心の隅に残り続けるんだと思う。
でも、それでいいとも思う。
そうやって後悔し続けることが、僕がお母さんにできる、唯一の贖罪だと思うから。
もしかしたら、この記事を見た優しい人は
「あなたのせいじゃないよ」
とか
「君は悪くないよ」
とか、言ってくれるかもしれない。
でも、誰に何を言われたとしても、
僕は、自分を許すことは、できないと思う。
お母さんは、自殺を望んでいたわけじゃなかった。
お母さんにとって、自殺は、最終手段で
先の見えない恐怖、苦しみから解放されるために、選択した。
お母さんは自殺する時、
ようやく、この苦しみから解放されると、安堵しただろうか。
違う。そんなことはない。
お母さんは、病んでから二度、僕に自殺をほのめかした。
一度目は、家に火を着けて父ちゃんと心中。
二度目は、崖から飛び降りようと思ったと、そう言っていた。
しかしどちらも、怖くてできなかったと、言っていた。
『怖くてできなかった』と、言っていた。
お母さんは、自殺が怖かったんだよ。
怖くてできなかったのに、お母さんは、自殺した。
首を吊る瞬間、お母さんは、間違いなく恐怖したはずだ。
なのにどうして、安堵することができようか。
3年間ずっと、苦しみ続けてきたお母さん。
そして死ぬ瞬間ですら、心が恐怖で満ちていた。
なのに、どうして、どうやって
僕は、責任を感じずにいればいいのか?
後悔を抱かずにいればいいのか?
そんなことは、無理だ。できるわけがない。
少なくとも、今は。
長々としたこの記事を最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
僕が今回のことを記事にしたのは、冒頭で言ったように当時のことを忘れないようにするため。
そしてもう一つ、もしあなたの大切な人が、困っていたら、悩んでいたら、助けを求めていたら
どうか、傍観者にだけは、ならないで下さい。
何もせず傍観していれば、その瞬間は確かに楽です。
でも、もしその悩みが原因で、その人に何かあったら
あなたはきっととてつもなく、後悔すると思います。
体の傷と違って、心の傷は見えなくて、分かりにくい。
でもヘルプは、何らかの形で出しているはずだから。
そのサインを、決してスルーしないで。
そして、最後に
当たり前だけど、親孝行はして上げて下さい。
『親孝行したいときには親はなし』なんてよく言うけど、僕は今回、それをつくづく思い知らされた。
日常的で無くても、何かの節目とか記念日に、お祝いする
写真なんかは、特にしっかり撮っておいた方がいい。
思い出が多ければ多い程、救われた気持ちになると思うから。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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